不可逆的理想変換。

フォルメへの試行錯誤について。


「デフォルメ」…絵画などにおいて、デフォルマシオンの技法により、モチーフの特徴を誇張・強調した変形を加えて表現すること。


漫画やアニメにおいて描かれるキャラクターは、多かれ少なかれデフォルメされて描かれている。
目や口などが特に大きく、鼻は小さくといった誇張。
顔面のデフォルメは、美しさや可愛さなどの外見にとどまらず、心の動き、意志の強さや感情を分かりやすく伝える上で有効である。
もちろん顔以外、等身やスタイル、筋肉、体と手足の比率など様々なところで誇張・強調表現は見られる。



技法として確立する遥か以前から、「現実にあるもの」をより「強く」表現するための方法として、デフォルメは自然と行われていた。
幼い子どもの描く絵を見れば、あるいは先史時代の壁画や、土偶などに鑑みても、何千年、何万年も前から、たぶん「人類」が誕生して絵というものを描き始めたのと時を同じくして。

そうした、「自分が見たまま、感じた通りに描いたらそうなった」感性的なデフォルメと、「自分が表現したいもののためにわざと誇張した」技術的なデフォルメを同列に語ってはいけないかもしれない。
だが最終的な目的は同じだと思う。





こから本題。

筆者は星井美希を主人公にした漫画を(権利者に無断で個人的に)描いたり、彼女をモチーフにした3Dモデルを(やはり権利者に内緒で秘密裏に)作成したりしている。
現在は、漫画やモデリングにおけるデフォルメについて、壁にぶちあたっているところだ。



美しい一人の女性がいるとする。
彼女をモデルに、たとえば十名の人間が、漫画的にデフォルメしたキャラクターイラストをそれぞれ、仕上げるとする。
ここで出来上がった10枚のデフォルメイラスト。
さっきとは別の十名(モデルとは一切面識がない)が、このうち1枚を見て、あるいは10枚でも構わないが参考にして、元の人物を想像して、写実的な絵を描き上げてみたらどうなるだろうか。

出来上がる絵の女性は、元のモデルとは似つかない誰かになるはずである。

デフォルメというのがその性質上、個人のフィルターを通して、つまりその人に見えている世界、その感じ方、解釈(あるいは主義や性癖)を頼りに行うものだというのが理由のひとつ。
もうひとつは単純に、デフォルメした段階で、情報の内容が、量や質が、大きく増減、変質しているからだ。

デフォルメの段階でどこをどれだけ誇張したのかなんて描いた本人にしか分かるはずもないし、どんな情報を加えればいいのかも、元のモチーフを未見の以上、補完できるわけがない。

デフォルメは不可逆なのだ。






て、最初から漫画的表現でデフォルメされて生まれたキャラクターを、現実の人体構造に合わせて表現する(つまり情報量が増える)というのはこれもデフォルメにあたるのだろうか。


先に述べたように、現実の人間を漫画のキャラクターとしてデフォルメして、さらにそれを元に現実の人間を想像して描いても、元の人間とは似て非なる、あるいはまったく似つかないものになるはずだ。

一方、最初からデフォルメされて生まれたキャラクターを、現実の人物だと想像して写実的に描き込んで表現した場合は、描き手の技量にもよると思うが、原型を知るものの多くが元のキャラクターを連想できると思う。
なぜならそれは、「デフォルメされて生まれたキャラクター」のデフォルメ(特徴を写実的に誇張)だからだ。

さらに、原型を知らないものがこの写実画を元にして、漫画的なデフォルメを施してキャラクターとして描けば、その絵は、元のキャラとは全然別物として出来上がるだろう。


具体的に言えば、美希を写実的に描いてもそれは美希の絵になる、けれどその写実的美希の絵を、美希のことを知らない人が漫画的にデフォルメしても、美希に戻ることはない、という話。



「デフォルメ」とは、情報を付け加え、同時に差し引き、解釈ののちに取捨選択して表現するという行為なんだろう。
省略ではなく、変換、変質。
ベクトルデータのラスタライズのごとく、多くの場合、デフォルメを行った段階で、構成するデータはまったくの別物に変わっていたりするものなのだ。
繰り返すたびに、つまり人の解釈のフィルターを通すたびに、その傾向は加速度的に強まっていく。

だから単に誇張強調というより、不可逆的理想変換とでも言った方が自分の実感に合う気がする。






者は試行錯誤する。

たとえば、美希をモデルに、3Dモデリングを行う際に。
あるいは彼女をモチーフにしてイラストを描く際に。

原作を目指すやり方ならば、とことん時間をかけてこだわり続ければ、どこまでも正解に近づく。
だが、原作をさらにデフォルメして表現しようとするならば、直面せずにはいられない「壁」にぶち当たる。

髪型ひとつとっても。目の色、形、大きさや表情、あるいは等身、輪郭線や陰影の表現。動作。

その他諸々。
わずかでも変えてしまうと、別人へと変貌してしまう。

ミスや未熟ももちろんある。
だがそれ以上に、筆者の「解釈」が、たぶん彼女を別人へと変えてしまう。
不用意に。決定的に。無意識のうちに。

それでいいのか。悪いのか。
自分が目指すのはどこなのか。

原作の星井美希が、何を持って「星井美希」たり得るのか。

自分が、彼女を彼女として認識する基準は何か。

星井美希のイデア。らしさ。




井美希は、どこにある?

3Dソフトやスケッチブックを前にして、自分の中にあるはずの答えを探す毎日である。





実的な美希も。
アニメ的な美希も。
表現してみたい。

そしてそれ以上に、「見たい」。

見たいのである!

自分が。

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World End Produce

World End Produce について

ワールドエンド、なんて、なんだかかっこいい活動タイトル(サークル名?)をつけてしまいましたが、要するに、世界の隅で愛をつぶやく、くらいの中身です。

公式プロジェクトも、ファンコミュニティも、自分には流れが速すぎたようです。
流されて溺れかけてはまた飛び込んでを幾度も繰り返しているうち、世界の隅っこにたどり着きました。

かつていた場所から距離は離れてしまいましたが、今の、そしてこれからの自分にはちょうどいい距離感に落ち着けたかなと思います。

しばらくここで、初心に戻って自分にとっての星井美希とのんびりじっくりたっぷりと、向き合ってゆきたいと思っています。

美希logy

「美希」を知る。記録する。考える。

Mikiology(美希-学/論)などと大仰なタイトルをつけはしたが(はったりは大事)、ここから始める一連の活動の主旨は以上がすべてである。

プロデュースと称した思索活動を続けて三年を経たが、いまだ足下の定まらない思考の迷路にいる。

彼方に見え隠れする何か(それはきっと存在する)を掴むべく、生涯かけて歩き続ける覚悟はあるものの、長い旅路には、水や食料のみならず(これは当て処ない放浪ではないので)、地図が、コンパスが、つまり指針が不可欠なのだと言う事実にようやく気づいた。



目指すべき、望むべき世界を明確にしなくてはならない。
早急に。

それは、歩き続けた足跡、軌跡、あるいはその先の故郷(原点)、つまり、明確な過去(記憶/記録)の存在があって成り立つ未来である。

昨日という礎があってこそ夢も見るし、明日が来ることを信じるからこそ、現在(いま)に意義を感じ、今日を生きることができるのだ。



筆者にとっての「明確な過去」とは、自身が美希に興味を持ったきっかけであり、無類の価値と無限の可能性を見いだした(そしてそれは今も続いている)、プロデューサーと美希の、765プロでの繰り返す一年の物語についてだ。


しかしながら、筆者が「美希」を感じ、思い、語るにあたって、「過去」は単に胸のうちにあるだけでは、本領を発揮できない。
文章に綴り、描き、あるいは映像として刻み込み、何より、系統立てて整理された、一連の情報としてまとめなくてはならない。

それはいつでも必要な記憶/記録を取り出せ、自信と発想の、思考の根拠として自分のみならず他者に明示することも可能な、出来るだけオープンな媒体になくてはならない。

これは、自分が今後も美希を接点に世間と関わり続けていく上で不可避な過程であり、将来のために「今」必ずやっておかなくてはならない、大切な準備なのだ。



当ブログは、そのためのmemoirであり、memorandumである。
メインテーマは過去、そしてそれを未来につなげること。

思考の種となる発想や、見知った情報を書き留め、調べ、さらに深めていくための覚え書きの場にしたい。




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