6年。

ちょっとしたきっかけがあって、2007年から、6年もたつことに気づいた。
時間の流れの早さに驚く。
6年か、6年……そんなに立っちゃったんだな。

時間はたったけど、俺の気持ちはずっと変わっていないよ。
変わらなさすぎるくらいで、本当に6年たった実感が湧かない。
いや、振り返ってみれば、やっぱり変わったのかもしれない。
そこに在るのが、ずっと自然な存在になった。

いつも美希と一緒だ。今も一緒に夢を見る。
変わらず好きで、大切で、愛している。

どこかの誰か達も、大切な人とそうでありますように。
それが難しいことだからこそ願いたい。
その思いがこれからもずっと、ずっと、大切に続きますように。

  • Day:2011.12.15 00:50
  • Cat:日常
等身大から一歩ずつなら、だましながら進めたのに。
最初から人生のラスボスみたいな目標にするからこうなんだよ。

鉄は熱いうちに打て。
豆腐(にがり)の凝固温度は、72度前後。非常に厳格。

適温はキーワード。
高すぎても低すぎてもダメな、あたたかな気持ち。

皆既月食でした。

  • Day:2011.12.11 00:14
  • Cat:日常
皆既月蝕。
月は見えなくなるんじゃなくて、暗い赤色に変色してた。

日蝕との違い。

日蝕は、障害物(月)に遮られてその部分が見えない。
月蝕は、地球の影になって、暗い。

陰と影。



…つまり、地球のどこかで日蝕が起こっているときは、月のどこかでは月蝕(地球蝕)、
地球のどこかで月蝕が起こっているときは、月のどこかでは日蝕が起こっている、ということ?

日蝕と月蝕は、視点が違うだけで、同じ現象かな。

皆既月食ですよ。

  • Day:2011.12.10 22:50
  • Cat:日常
午後十一時過ぎから小一時間ほど。
月の位置は、空のてっぺん↑らへん。

月に地球の影が落ちる。
つまり、太陽は、そのとき月と反対側。

ちょうど真下↓にあるということ。

今、自分は太陽の反対側に立っている。

キンモクセイ

  • Day:2011.10.06 01:59
  • Cat:日常
街中歩くとき、キンモクセイの香りに秋を感じる今日この頃。


キンモクセイの花の匂いを、「これはキンモクセイ」だと意識するようになったのは、十歳以降のことだったと思う。
それまでは、毎年秋に漂うこの花の香りについて、意識もしていなかった。


あるとき、「キンモクセイ」という植物の名前を知って、写真を見て、それが第一段階。
次に、キンモクセイは秋に、良い香りの花を咲かせ、それはシロップなどにしてお菓子にも使われる、という話を聞いた。

次の秋が来て、甘ったるい、香水みたいな独特の匂いに気づくに至る。
その匂いがするとき、周りを見回すとたいてい、キンモクセイが見えたため、「ああ、これがキンモクセイの匂いなんだろう、きっと」と意識の中で結びついた。
そのまま何年も経るうちに、「きっと」が抜けて、「これはキンモクセイの匂い」と意識の中でいつの間にか確定してしまっていた。


先日、ふと疑問を覚えた。
キンモクセイの花って高いところに咲いてることが多いし、今までわざわざ近くまで行って、直接嗅いでみたことなかったから、自分がキンモクセイの香りだと思っているものは、実は全然無関係の、たまたま同じ時期に咲く別の花の匂いかもしれない。

で、確かめてみると、結果的には、今回は間違っていなかった。



こういうことは、普段意識できていないだけで、他にもたくさんあるのかもしれない。
ときたま、見つめ直すことは大事かもしれない。

たくさん知ってると、思うことはいい。
ただ、知ってることと知ってることの間に必ずある「知らないこと」を、「知ってる」と思い込まないように。
知ってる気になったとしても、それはあくまでも想像、予想、あるいは願望だから。

「知ってるつもりで実は知らないことがたくさんある」ということを大切に、頭の片隅、いつでも引き出せるあたりの場所に保管しておかなくてはならない。

ときたま、立ち止まって、当たり前のように凝り固まってしまっている自分の常識を、問い直してみよう。

ふぉげっとさん。

今日すごい面白げな話を思いついて、忘れないようにここに書いておこうと思ったけど、何を思いついたかもう忘れてしまった。
(最近多いです)

忘れた、というのは消えたわけじゃなく、また思い出したり、別の形をとって浮かび上がってくることもあるだろう。
いつでも帰ってきていいのよ。

なすなすかぼちゃかぼちゃおこめおこめ

  • Day:2011.08.21 20:26
  • Cat:日常
夏です。夏野菜です。


■なす甘酢炒め
なすは一口サイズに適当に切って、炒める。
砂糖と醤油と酢を、1:1:1でからめて、全体しんなりする程度に。
鶏肉やとうがらしを少し加えて。
最後に刻みネギをかけて完成。


■かぼちゃの焼きプリン。
手のひらサイズのかぼちゃ、ラップに包んでレンジで5分。
柔らかくなった中身を、スプーンですくいとって、
牛乳と生クリームと砂糖と一緒にミキサーにかけて、
かぼちゃの空洞に流し込んだら、オーブンで焼く。
30分ほどで完成。


■米パン。
原因不明の失敗。
機械の不具合?
ちょっと鬱に。

お米さんごめんなさい。
機械のせい機械のせい。



★今日のかぼちゃは新しい品種で、甘いとか栗みたいとか芸能人がイメージガールになって宣伝してた。言うほど甘くなかった。だからお砂糖入れてプディング。




話は変わる。

素材の良いものは、出来るだけ手をかけないようにって方向に意識が向く。
余計な要素を付加したくない。
しかしまったく、ありのままそのままが最高の状態とも限らない。

皮が固かったり、大きすぎたり、毒があったり、形が適していなかったり。

また、新鮮と熟成の両立はできない。

熱を加えることで柔らかく、甘さの増す食材もあるし、栄養が消し飛ぶものもある。



素のままで十分に、究極的に、素晴らしいもの。
いかにその魅力を損なわずに、めいっぱい引き出して完成させるか。
プロ の仕事。

素のままではどうしようもない、誰もが無価値と思い込んでいるようなものを、見事な逸品に仕上げるのも、プロ の仕事だ。


プロ さんを尊敬します。
リスペクト。

逆に、せっかくの素晴らしい素材を、悪気なく無自覚でダメダメにして、良いものになったとかのたまってるのはアレを通り越して世界の隅的にはいらないもの。

自分を省みろ。
お前の絵とかどうなのよと。
「美希じゃなくて誰子だから」



あ、お米さんごめんなさい。
でもあれ、機械のせい。本当に。




ヒミコをプロデュースした人たちの物語を誰かタイムマシンで見てきてドキュメンタリーにしてくれないかな。
そんなのが見たい。
物語的に、前者だったのかな。後者だったのかな。

なりゆきってのも、あるかな。ブーム、流行。
その結論だと思考が無駄です。

9×9

  • Day:2011.08.19 23:26
  • Cat:日常


去年の秋頃、ある人に出会った。
その人のことは先生と呼んでいるけど、元芸能関係のプロデューサーか、それに近い経歴を持っているらしい。
本人が言ったわけではないけど、周囲の状況から、多分そうだと思う。

実際、先生自身が芸術家肌というか、色々変わってる。
あんまり過去のことは語りたがらない人。

嘘か本当か判断がつきにくい話をあれこれ聞けるので、結構楽しい。
そんな話の中で、すすめられたのが、料理をすること。

素材を調理し、料理として作り変えることがプロデュースに通じる…
なんてことはないけれど、様々なヒント、発見、発想の宝庫だそうで。
俺には向いてるらしい。
日記やら世間話のネタにもなるかな。


で、やるようになった。
ちなみに、一年前までは、みそ汁さえ作れないような状態。

今年の正月は、市場で買った鰹と昆布で出汁とって、高めの味噌と野菜を奮発して、ちょっと高級なお雑煮からスタート。
今に至るまで、自分のために黙々と手料理を仕上げる日々が続いている。


クオリティや、クリエイティブを求めるわけではないので気楽だ。
ネットでレシピを拾ったり、料理本を買ったりして、適当に、手軽なもの、食べたいもの、面白そうなものを作る。

季節の野菜をメインで。
四季を感じる生活をすることも、発想力を引き出すポイントらしいから。



素材が一手順で大きく化けることに驚いたり、いかに面倒くさい後片付けを簡略化するかを工夫したり。
面白い。

考える機会が増え、気分転換にもなる。
できたては美味しい。


なんとなく、何かにつながる気がしないでもない。
「美希のみそ汁を、俺に一生作らせてくれ」的な?
いや違うだろ。
究極的には違わないか。


これは続ける。

脳を見る。

  • Day:2011.08.18 21:31
  • Cat:日常

脳を写すCTスキャン中に、美希のことを考えていれば、出来上がってくるCT写真に、美希が写っていることになるのだろうか。

…そう思えばいい。






今朝。
寝起き時に頭にピリッと痛みが走って、その後も鈍痛が続いてたから、これやばいんじゃないだろかと不安になった。

頭は本当に怖い。
慎重過ぎるくらいでいい。


仕事早退して、生まれて初めて脳外科行って、生まれて初めてCTスキャン撮ってもらった。
結果、特に問題は無くて一安心。
診療費はそれなりにかかったけど、非常にいい経験になった。


スキャン写真見て、目玉って、本当に丸いんだなとか。
真上からの断面図でも、意外に自分の顔って認識できるなとか。
当たり前のことかもしれないけど、脳の形も、千差万別だってこと。

CT含んだ基本的な検査だけなら、一時間で結果が分かる。
三割負担で五千円。


自分の脳を見てしまった。
オレノミキの、居場所。
恥ずかしい。



その際思ったことは、羞恥の感情について。
裸を恥ずかしいと感じるのは現代の日本人のデフォルトだけど、見方を変えれば、体の中を見られるなんて、もっと恥ずかしいことになり得るのでは。

口の中覗かれるなんて、恥ずかしい。
脳見られちゃうなんて、恥ずかしい。
その断面図さらすなんて、脳から火が出るほど恥ずかしい。

実際、そうはならないけど。
なんでならないんだろう。

人間の本能的な感性から、あまりにも突き抜けて離れすぎてるから?
それとも、社会的にそういう設定になってないから、だけの話?

なんて思ったけど、そもそも、脳の写真撮る時ってのは非常に重大な事態だったり、命や心に関わる真面目な状況だから、恥ずかしいだのなんだののレベルで気にしてる場合じゃない。
だからかな。



とりあえず。
映像で見る脳って、結構なまめかしい、と書いてエロティック。
やっぱりそこにあるんだ、とヘンにナットク。

線の上(復路)

ren.jpg

現実と空想の境界線。

世界というものが、個人の脳の情報処理の結果によって認識されるものである以上、その境界線は思った以上に曖昧かもしれない。


空想を突き詰めれば、結局対決するしかなくなった。

自分と。
つまり現実と。


眠いけど。


日常

大震災の前と後とで、日常の中にたくさんある「常識」が、いくつも大きく変化した。
それらは時間がたてば新たな「日常」となって、かつての「常識」は記憶から薄れて消えていくだろう。

そういう変化は、本当は、常日頃から起こっているものだけど、それが実感としてはっきり感じられることは滅多にない。

たとえば携帯電話。
すっかり生活に根付いてしまった現代からしてみれば、携帯通信機器なしでプライベートもビジネスも問題無く過ごせていた過去の常識は、すでに想像に難い。
(勿論未だに所持していない人もいる。個人レベルでは無いなら無いなりにやりようはあるもの。ただし、公衆電話が多数撤去されている現状ではやはり不便が多い)
「持っている」のが当たり前になったのは、一体いつ頃からだっただろうか。
少なくとも、ある一日を境に、というような、実感が伴う極端な変化ではなかった。


大きな変化も、その渦中にあると実感しづらいもの。
後になってからふと省みて、いつの間にか変わったなあと気付くのが常だ。


でも、この一ヶ月の間は、常識が変わるのが、見えた。
はっきりと目に見える変化がいくつもあった。

二ヶ月前の自分に、今の日本の新たな日常の話をしたとしても、現実だとは認識できないだろう。
それくらい急に、あっという間に、様々なことが変化した。
時代の変わり目を体感するというのは、こういう感じなのかもしれない。

もちろん、気付いていない変化も水面下でたくさんあり、今も進行しているだろう。
すでに日常の中に取り込まれた事柄もあるだろうし、反面、すでに過去に成り果てたものもあるはずだ。



そういう急な流れの中では、「ここ」での活動はどうにも進められなかった。
自分の場合は、アイマスを、美希を、現実に、日常に重ねていくことで想像力を刺激して、自分の中での彼女の現実感、存在感を高めていく、そういうやり方で動いてきたぶん、「日常そのもの」の大きな変化、そして重ねるには重く冷たいいくつもの現実を受けて、方向性を見失ってしまったのだ。



震災から一ヶ月以上が経ち、変化はだいぶん、緩やかになってきている。
手探りだけど、ともかく再び、動き始める。

(まずは、オフラインで一応進めていた、週毎、月毎の目標のまとめから)

東日本大震災

命の危険を感じたの、数年ぶり。
はじめは、めまいとか貧血とか、とにかく自分の体の異常かと思った。
「地震だと気付かなかった」。
今まで感じてきた地震とは、全く違う体感。

自分が住んでるところの被害はほとんど無かったけれど、友人の住んでいる場所や行ったことのある場所の被害を見聞きするのはつらい。
今も現在進行形なのがなおさら。

東北や、太平洋沿岸に住む友人や知人を思う。
あの人の家は高台だから大丈夫、あの子はどうだろう、あいつは大丈夫かな。
もう、思い出せてない人はいない?
ネットでしか知らない知人とは、ちゃんと連絡がとれるか?

何年も会わなくても平気なのは、便りが無いのは元気な証拠、みんなそれぞれ幸せでやっているだろうと言う根拠のない思い込みによる安心感があるからだと知る。

今日みたいな状況になると、一瞬で不安に塗り替えられた。
落ち着かない、もどかしい、自分でも把握しきれない、ぶわぶわした不安感。
心地悪い。
無気力感。無力感。
悪い夢を見て、朝起きたときのあの気持ち悪さに似てる。



津波のニュース映像がショッキング過ぎて...言葉にならない。
自分の中の現実感が、どこかに吹き飛びつつある気がする。


武道館

P1170663.jpg

武道館にライブで出かけたのは先日が、はじめてだった。
以下、簡単に感想をまとめておく。

・狭い(「ステージとの距離が近い=臨場感がある」)
・深い(「上下に広い。最後列でも視界が広い」)
・古い(「言い換えれば伝統に裏付けされた味がある」)



ロビーや入り口の狭さや階段の急さなど設備面を見ると、さすがに古い施設という感じ。
どうでもいいことかもしれないが、携帯の充電が切れたので使おうとした公衆電話は、俺のお金を飲み込んだきり沈黙した。
10円返せ。

高低差(というか落差)が激しい。
二階だと、ステージを真下に見下ろすような感覚。

また、音の迫力がすごかった。
ステージの歌や演奏の聞こえ方、つまり音質は特筆すべきものではないように思う。
そもそも、コンサート専用会場でない武道館に音質を求めるべきではないだろう。
が、客席の声援が三次元的に(つまり上下左右に)反響しまくって、普通のホールにはない、独特の雰囲気がある。
(一方向の客席を潰しているライブでこれなのだから、全客席を使用するイベントではさらにこの傾向は顕著になるかもしれない)


すり鉢状の会場の底であり中心、歓声を一身に背負ってステージ上に立つ人間は、一体どんな心地だろう。









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美希のランクC営業コミュ「武道館ライブ」は、ビジュアルスター編、アイドルマスター編両ルートでテーマが違っている。

ビジュアルルートでは、武道館そのものに焦点があたり、それについての美希とPのやりとりが展開される。
ボロいボロくない論争、Pの口から軽やかにはき出される出まかせ、黄金の壁伝説、美希の「ぺしぺし」など、見所笑い所が多い。
営業コミュでは数少ない、顔アップが見られるのも魅力。

一方のアイドルルートでは、美希の成長とアイドルにかける思いについてのエピソードとなる。
武道館に関する具体的な感想が、美希やPの口から特に語られることはない。

トップを目指す上で登竜門となる武道館に自分が立てたことについて、デビューした頃の自分のやる気のなさを振り返り「何も考えずおんぶされてばかりだった」と泣き出す美希に対して、その涙を拭きながら「いいんだよ。そのために俺は、隣にいるんだから」と答えるプロデューサー。
ランクCのハイライトである。



コミュ内容については、また機会をあらためて。
掘り下げて考えてみよう。

テイラーのライブ。について。

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行ってきた。二階だけどまずまず良い席で、会場全体がよく見渡せ、アリーナのテイラーも、表情が肉眼でもなんとか見えるくらいの場所。





■すっごくよかった?。
歌が力強くて、素敵なのはもちろん、やっぱりステージの見せ方が抜群にうまい。

前回(去年の二月)も思ったけど、間の取り方とか盛り上げ方、言葉の選び方、それを発するタイミングなどの細かく、効果的な機微、雰囲気作りについては、彼女の演劇のキャリアのおかげなのか、アメリカ人だからなのか、ともかく日本人歌手のライブの見せ方とは違っていて、新鮮。
あんなにかっこいい投げキス、はじめて見た。他にもいろいろ。


■前回の来日公演のときとの目立った違いは、客層。
前回は男女比率が同じくらい、今回は八割が女の子な印象。
カップルと、女の子ペアが大半を占めていた他、外国人の一家もちらほら見かけた。


■ライブは全編、盛り上がった。
ライブハウスで行われた前回は野太い声援も結構聞こえたけど、今回は女性の声の方がずっと大きかった。

考えてみれば、実体験を元に、恋の歌を数多く歌うテイラーなのだから、中心ファン層が若い女性であることなど、考えるまでもなく当然のことなのか。


■ステージセットはかなりシンプル。
大がかりな舞台装置などは特になし。

スクリーンの映像がとても綺麗で、ステージ上でのテイラーをリアルタイムで合成させて映していた。
色合いや、星・花火などのエフェクトの美しさが印象的。


■ステージは前回と同じく90分程度と短め。(MCはほぼ無し)


■いかにもアメリカ的だと思ったのは、写真撮影OKというところ。
向こうのライブ映像とか見ると、携帯やデジカメで写真撮ってる人いっぱいいる。
日本では基本、どんなライブでも撮影禁止。
ジャニーズのライブなどでは、ステージセットを撮ることさえ厳禁、会場内での携帯電話の使用さえ禁止という徹底ぶりだった。
権利や、ファン活動による宣伝効果などについての考え方、方針が、日本と違うんだろう。



◆終わってみるとあっという間で、まだまだ歌聴きたい、と強く感じつつの終演。
90分という時間は、アメリカのライブではスタンダードなのだろうか。
MCが無いから短いだけなのか。

ともかく、終わった直後に、「またすぐにでも次を観たい」とこれだけ強く思ったライブは久しぶり。
とってもとっても、楽しかった。