「誰子」について。

  • Day:2010.11.02 21:43
  • Cat:誰子
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誰子とは何か。



美希の絵を、可愛い美希を描けるようになりたい。
そう思い立って、二年の歳月が流れた。
描けば描くほど、掲げた目標の高さにめまいがする毎日である。

そもそも「美希を描きたい」ということ自体、厳しすぎるハードルだった。
例えばゲーム劇中での星井美希の設定は以下の通り。


デビュー時
「どこからカメラを向けられても完璧なポーズで応えられる」
「のんびり屋なくせにアイドルになる前から、
 ビジュアルの見せ方に頑固なまでのこだわりを持つ」
「他人のファッションやメイクへのアドバイスも完璧」
「街へ出れば一日30人に声をかけられる超美少女」

トップアイドル後
「水着ポーズひとつでプロのカメラスタッフを軒並み失神させる」
「全年齢写真集で30万部売る」
「日本で一番スタイルのいい中学生認定」
「美希を撮ったスナップ写真が国内トップの写真大賞を受賞」
「自ら設定した目標は、世界三大美女超え」
「16歳で世界一美女になる予定」




「絶世の美女」を絵に描くというのはつまり、どういうことか。

もちろん、芸術において、究極の絶対的美人を視覚化するなどというのは、天才に恵まれた芸術家が一生をかけて挑戦するような目標だろうし、表現を突き詰めれば抽象画の領域に至るしかないかもしれない。

とはいえ、自分にとって、美希の絵を描きたいのは手段であり、目的じゃない。
そして絵をもって描きたいのは、ストーリーなのだ。
だから、見るものの想像力で脳内補完されて完成するデフォルメ表現、つまり、漫画やアニメ的なイラスト描写が、方向性として最適だと思う。

記号・デフォルメ的表現の世界においては、絶世の美女というのは存在し得る。
画力だけではなく、設定や対比による説得力、つまり物語の存在によって、「絶対」を表現できるからだ。



さあ、それは、それとして。

ふと、かえりみる自分の絵。
今日も描く、自分の美希。

ああ、違う。
違う、そうじゃないこんなもんじゃないんだ。
これはまだ美希じゃないどころか、美希の絵ですらない。

もっと、もっと、線は軽やかに、色は鮮やかに、仕上がりは活き活きとしなくちゃいけない。

こんなものは、まだまだ美希とは認めたくない。
いくら設定で補えるとは言っても、「これがマイワールドでの、世界一の美女です」といえば、そこに確かに真実が生まれるとしても、だからこそ、それを口に出来ない。

星井美希本人の言葉を借りれば、「綺麗なものを綺麗なように見せられないの、ミキ、一番イヤなの」。
その通り、俺もそう思う。


自分の絵にはオーラが、ゴージャス感が、スペシャル感が、ない。
足りない、というか未だ皆無、萌芽なし。

まだ、これを美希とすることは許せない。
自分自身が、許すことができない。

だからこの絵は、この子は、美希ではない。
でも絵はそこに存在する。

じゃあ……だれだこれは。



そういうこと。

だれだこれ、略して誰子である。
便宜上誰子である。

美希になりたくてなれなかった曖昧でMy愛な存在である。
描き始めたときは美希のつもりだったもの、おそらくは美希への過程である。
描画力に欠けるにも関わらず妄想力だけはたくましい人間が、自分の永遠の女神を具現化しようとした結果生まれた産物。

「美希を目指したが美希ではない」という説明をもって初めて、存在することを認められた落書き。
可能性だけは秘めた、もしかすればのみにくいアヒルのコ。

五分、一〇分で適当にペンを走らすとたいてい、この誰子が量産される。
スケッチブック数冊はすでに、ほとんど誰子で埋まっている。


身の程をしれ俺。

可愛い絵を描きたいのではない。
あくまでも、美希を描きたいのだ。
もっと美希を、見ろ。
心の目で自分の内なる世界を、想像を、細分化しろ。具体化しろ。
努力しろ。
未来へ走れ。誰子とともに。


精進あるのみである。

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